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2014年1月31日 (金) 07:49 1798~1859年、在位1845~1859年
シャム(現在のタイ)に亡命していたが、1846年に隣国シャムとベトナムの合意が成立して帰国し王位につく。
1853年11月、ひそかにカトリック教徒の高官をシンガポールに派遣し、シンガポールのフランス領事を通じて、書簡をナポレオン三世に送りフランスの保護を要請した。しかしその情報がシャムに漏れてしまったため、反発を恐れフランスへの要請を取りやめてしまった。
後継は、副王であった長男[[ノロドム王]]。
現在のカンボジア王国憲法では、アンドゥオン王かその子ノロドム王と[[シソワット王]]の子孫だけが王位につくことができるとされていて、現在のカンボジア王室の始祖にあたる。
王国再建事業の一環として州の再編成や[[カンポット]]港の整備をし、[[ウドン]]を中心とする国内交通ネットワークを整備し、また、宮廷音楽や宮廷舞踊の復活やプチュンボンなどの祭礼儀式の整備、伝統法典の蒐集、年代記の編纂なども行い、現代カンボジアの基礎を作り出した王である。
カーカイ(1815)、チバップスレイ(1837)などを著す。