日本カンボジア友好条約

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日本・カンボジア友好条約は、1955年12月9日に東京で調印された、両国間の永久の平和と友好関係の維持、経済・文化・技術上の協力関係を強化するため協定を交渉すること、移民の便宜を計ることなどを定めた条約。

条約全文 第1条日本国及びカンボジアは両国間の永久の平和及び永続する友好関係を維持するものとする。第2条各締約国は、他方の締約国の主権、独立及び領土の保全を尊重することを約束する。両締約国は、両国間に生ずることがあるいかなる紛争をも、平和的手段によって解決することを約束する。第3条各締約国の外交代表及び領事官は、他方の締約国の領域内において、最恵国の外交代表及び領事官が同領域内で受けるすべての特権及び免除を、相互主義に基いて、享有するものとする。第4条両締約国は、両国間の経済的、財政的、技術的および文化的協力関係を強化することを目的とする諸協定を締結するため、交渉を開始するものとする。両締約国は、科学及び産業の分野における知識および技術上の経験の交換を容易にするため努力するものとする。第5条各締約国は、自国の領域へ移住することを希望する他方の締約国の国民に対し、その移住が両国の共通の利益をもたらすと認めたときは、できる限りの便宜を供与することに努力するものとする。第6条この条約は、各締約国の憲法上の手続に従って批准されるものとし、プノンペンで行われるべき批准書の交換の日の後一個月で効力を生ずる。この条約は、いずれか一方の締約国が1年の予告をもって破棄しない限り効力を有するものとする。 締結までの経緯

フランスからの完全独立を回復後(1953年11月9日)王位を退いて自ら政治の指導にあたり総選挙に大勝して首相に就任したノロドム・シハヌーク殿下は、、国賓として1955年12月日本を公式訪問する。日本との親善増進が目的であるが、カンボジアとしては日本との貿易促進、1万人余りの移民受け入れ、新都市の建設などのための技術導入、日本・カンボジア友好条約の締結を希望していた。12月4日ノロドム・シハヌーク首相が3度目の来日をし、翌12月5日首相官邸を訪問。鳩山首相と会談時、カンボジア側から今回の使節団一行滞日中に、吉岡駐カンボジア大使を通じて両国間友好条約を締結したいとの提案が行われ、鳩山首相も全面的に賛意を示し、同日日本政府は、カンボジアと日本との友好条約の署名のための全権委員に重光外相をあてることを決定。日本・カンボジア友好条約は1955年12月9日午後、日本外務省で、国賓として来日中のノロドム・シアヌーク首相(兼外相)と重光外相との間で調印された。翌1956年7月21日、日本・カンボジア友好条約批准文書がプノンペンで交換され、1956年8月21日発効した。

開発計画

同時に発表された共同コミュニケで、2点の開発計画が明らかにされ、両国間で原則的了解が成立した。 この2件の開発計画の具体的な問題の打ち合わせのために、それぞれの調査団が日本からカンボジアに追って派遣されることになった。

参考:家の光 昭和31年8月号「移民調査団がみてきたカンボジア」

日本の農業労働者移民送り出し

年間1万人の日本人を面積17万2500平方キロに407万の人口しかいないカンボジアに移民として送り出すと言う計画。この1万人はすべて農業労働者で、技術家や漁業関係者は別ワクになっており、また年間1万人の農業労働者のうち2割は女性でもよいとされた。来日中のカンボジア国「社会活動、一般衛生担当」国務大臣ホウール・ライ・イン氏と矢口外務省移住局長との1955年12月7日の会談で大綱が決まり、日本・カンボジア友好条約の第5条に移住の規定が定められた(規定自身は両国適用の文章になっているが、カンボジアから当時でも8900万人の人口を持つ日本への移住は想定されていない)。日本からの農業労働者の移住先はカンボジア全土にわたるが、特に北部のコンポントム州、ストゥントレン州、クラチエ州の未開発高地への移住が期待された。

キリロム都市計画への日本の資本・技術協力

プノンペンの西南約100キロの高原地帯にあり、プノンペンと当時フランスの手で建設が進められていたカンボジア最大の海港コンポンソム(現在のシアヌークビル)とを結ぶ道路(国道4号線9から30kmばかり西に入った所にあるキリロムの都市開発計画。わずかな住家があるだけで、あとはジャングルであるが、これに日本の資本、技術を入れ、住宅、道路、上下水道、電気、ガスなどを整備し、政府機関の避暑地たる高原都市を建設しようというもの。