扶南

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紀元前1世紀頃からインドと中国の交易においてマレー半島のクラ地峡を経由するルートの中継地点として発達した港市によって形成された国家で、主要港の置かれたオケオ遺跡からは、中国やインド、ローマなどからもたらされた遺品が発見されている。

3世紀の中国・呉の史料によると、柳葉(りゅうよう)という女王が統治していた扶南に模趺国の混填(クンディナまたはカウンディニヤというサンスクリット名の漢訳)がやってきて柳葉と結婚し、扶南の王統が創始されたと記されている。また扶南の王は名前の末尾に「ヴァルマン(保護する者の意味)」がつくサンスクリット語名を持ち、ヒンドゥー教を信奉していたとも記されている。 扶南は480年頃から514年まで統治したカウンディニヤ・ジャヤヴァルマン王(『梁書』による僑陳如闍跋摩)の時に最盛期を迎える。この王の都は現在のプレイ・ベンPrey veng州のバ・プノンに位置するヴィヤーダプラ(特牧城。狩人の町の意味)とされる。 その後514年即位したルドラヴァルマン王が中国史料に残る最後の扶南の王となる。彼の時代、真臘の侵攻によって現在のアンコール・ボレイの地であるナラヴァラナガラに遷都された。都の南に位置するプノム・ダの丘が聖地とされ、ヴィシュヌ寺院が建立されたといわれる。 ルドラヴァルマンの後、7世紀頃までは中国への使節が記録されているが、交易ルートがマラッカ海峡経由に移行したため、交易における地位が低下したことも一因して衰退をはじめ、徐々に属国だった真臘に侵略されることとなった。