ポストアンコール期

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ジャヤヴァルマン7世は1218年頃亡

インドラヴァルマン2世(在位1218年頃-1243年) 1238年にはタイ遠征に失敗して北部の要都であるスコータイを失った。

ジャヤヴァルマン8世(在位1243-1295年) 中国の元朝が隆盛しており、アンコール王朝も1283年に元軍の攻撃を受けて、1285年には元朝のフビライ・ハンへの朝貢をはじめ

1295年 アンコール朝最後の石造寺院といわれるマンガラルタMangalarthaがバラモン僧ジャヤマンガラルタのために造営 が、ヒンドゥー教は徐々に衰退し、ジャヤヴァルマン8世の娘婿シュリーンドラヴァルマン(在位1295-1307年)の時代にはスリランカから流入した上座部仏教が広まっていた。 元朝の使節だった周達観によって『真臘風土記』が記されたのはこの時代、1296年から1297年とされている。

シュリーンドラジャヤヴァルマン(在位1307-1327年) さらに上座部仏教は隆盛 パーリ語(上座部仏教)による最古の碑文が1308年付けで残されている(サンスクリット語碑文の最後のものは1329年付)。

ジャヤヴァルマーディパラメシュヴァラ(在位1327-1346年頃) ニルヴァーナパダ(在位1346年頃-?)とその息子が続けて王位を継承する

1353年 アユタヤの侵攻を受ける

スーリヤヴァムシャ(在位1358年頃-?)治世下の1393年 アユタヤの侵攻を受けた

ポニェ・ヤート(在位1417年頃-1459年?) 1431年 ついにアユタヤによってアンコール都城は陥落し、9万人の市民がアユタヤへ強制移住させられたといわれる。

王は1432年アンコール都城を放棄し、バサンへ遷都。 1434年プノンペンへ新都城を建設した (ここまでをポスト・バイヨン期としている)。

トンモ・レアチェア(在位1474-1504年) ダンカート・ソコントール(在位1504-1512年)と王位は継承され、

トンモ・レアチェアの甥にあたるアン・チャン1世(在位1515-1566年)が即位すると、王国は一時的な安定期をむかえ、1528年新都ロヴェックを建設

1531年と1557年にはアユタヤに侵攻 1540年アユタヤの侵入軍を撃退 王は1550年にアンコール都城を再発見 1564年から1566年にかけてアンコール・ワットの浮彫を追刻している。

バロム・レアチェア(在位1566-1576年)とサータ1世(在位1576-1596年)もアンコールの地に逗留 1577年から1579年には遺跡の修復

1593年 アユタヤが王国の北部諸州を占領

1594年首都ロヴェック陥落