カンボジア人民党

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2006年現在上院、下院双方の過半数を占める与党である。 1991年10月にカンボジア人民革命党の党名を改称した。

ベトナムとの間の国境紛争が激化していた1978年12月2日、クメール・ルージュ支配下のカンボジア東部(ベトナム国内説もあり)でヘン・サムリン、フン・センら元クメール・ルージュ幹部らが「カンプチア民族救国統一戦線」を結成して反乱を起こし、12月25日にはベトナム軍がカンボジア領内に全面侵攻、翌1979年1月7日首都プノンペンが陥落して、クメール・ルージュはタイ国境地域に退却した。「カンプチア民族救国統一戦線」は「カンプチア人民共和国」の成立を宣言、カンボジア人民革命党を再建し、ヘン・サムリンが書記長に就任した。その後の内戦の過程で1982年にはクメール・ルージュがシアヌーク派、ソン・サン派とともに「民主カンプチア連合政府」を樹立し、ベトナム軍に支援された人民革命党の「カンプチア人民共和国」に対抗した。

その後書記長には一時ペン・ソバンが就任するものの失脚、ヘン・サムリンが返り咲いた。

1989年のベトナム軍撤兵後、和平機運が高まり、国号を「カンボジア国」に改称。さらに1990年の「カンボジア和平東京会議」をへて、1991年の「カンボジア和平パリ国際会議」で和平合意が成立、4派は「カンボジア最高国民評議会(SNC)」を結成した。1992年に設立された国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)の監視下で1993年4月に自由選挙による総選挙が行なわれ、シアヌークの息子ラナリットが党首を務めるフンシンペックが第1党となった。第2党に転落したカンボジア人民党はフンシンペックと連立、第一首相にラナリットが、第二首相にフン・センが就任することで妥協が成立し、立憲君主制をとる新憲法を採択、シアヌークが国王に即位した。

しかし依然として強大な影響力と支配網を維持するカンボジア人民党はその後フンシンペックと微妙な緊張関係に立ち、1997年にはプノンペンでの武力衝突に発展したが、1998年7月の総選挙で第1党となり、フン・センは首相に就任。フンシンペックとの連立政権を維持してはいるが、その後選挙ごとに議席数を増やしており、2006年にはヘン・サムリンがラナリットの後任として下院議長に就任するなど、党勢は拡大の方向にある。

2006年現在、党名誉議長はヘン・サムリン、議長がチア・シム(上院議長)、副議長がフン・センである。

議員数

  • 上院議員: 45/61(2006年現在)
  • 下院議員: 73/123(2003年現在)

公式サイト