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シン・シサモットは、1935年にカンボジア北部のストゥントレンで、父Sinn Leangとラオス中国系の母Seb Bunleiの間に生まれた。 | シン・シサモットは、1935年にカンボジア北部のストゥントレンで、父Sinn Leangとラオス中国系の母Seb Bunleiの間に生まれた。 | ||
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5才の時にストゥントレンの小学校に入った彼は、6才~7才の頃にギターに興味を持ち、学校の行事での演奏を頼まれたりしていた。また、仏教に深い関心を寄せ経典や様々な本を読んだり、サッカーや凧揚げなどの遊びが好きだったようだ。 | 5才の時にストゥントレンの小学校に入った彼は、6才~7才の頃にギターに興味を持ち、学校の行事での演奏を頼まれたりしていた。また、仏教に深い関心を寄せ経典や様々な本を読んだり、サッカーや凧揚げなどの遊びが好きだったようだ。 | ||
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1951年頃に医学の勉強をするためにプノンペンへ上京したが、歌手や作曲などの仕事もするようになり、またたく間にプノンペンでも有名人となった。 | 1951年頃に医学の勉強をするためにプノンペンへ上京したが、歌手や作曲などの仕事もするようになり、またたく間にプノンペンでも有名人となった。 | ||
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後に国王夫人のお抱え歌手にも任命され、名実ともにカンボジア音楽界の王としての座を不動のものとする。 | 後に国王夫人のお抱え歌手にも任命され、名実ともにカンボジア音楽界の王としての座を不動のものとする。 | ||
− | 悲劇の時代 | + | ===悲劇の時代=== |
1970年3月18日の突然のロンノル派のクデーターによってシアヌーク政権が倒されると、彼の歌は新ロンノル政府のプロバガンダとして利用されるようになる。 | 1970年3月18日の突然のロンノル派のクデーターによってシアヌーク政権が倒されると、彼の歌は新ロンノル政府のプロバガンダとして利用されるようになる。 | ||
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この時までに彼はバレエダンサーと再婚している。 | この時までに彼はバレエダンサーと再婚している。 | ||
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有識者や芸術家を次々と殺害したとされるポルポト政権が、旧政権の広告塔とされていた彼をどう扱ったかは想像に難しくない。 | 有識者や芸術家を次々と殺害したとされるポルポト政権が、旧政権の広告塔とされていた彼をどう扱ったかは想像に難しくない。 | ||
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シン・シサモットの手がけた音楽ジャンルは多岐にわたり、カンボジアの伝統的な歌から、リズム&ブルース、ロックやガレージロックまで幅広く歌いこなし、独特のカンボジアンサイケといったジャンルも確立した。 | シン・シサモットの手がけた音楽ジャンルは多岐にわたり、カンボジアの伝統的な歌から、リズム&ブルース、ロックやガレージロックまで幅広く歌いこなし、独特のカンボジアンサイケといったジャンルも確立した。 |
2014年2月12日 (水) 11:54時点における最新版
Sin Sisamouth
1960年代~70年代にかけて活躍したカンボジアの歌手で、ロ・セレイソティアと共にカンボジア音楽界のトップに君臨する国民的スター。 "King of Khmer music"とも呼ばれる程の、今なお絶大なる人気を誇る。
(シンシサモット、シン・シーサモット、Sinn Sisamouth、Sisamoth、Sisamout)
略歴
幼少期
シン・シサモットは、1935年にカンボジア北部のストゥントレンで、父Sinn Leangとラオス中国系の母Seb Bunleiの間に生まれた。
兄一人姉二人の四人兄弟の末っ子で、父親はバッタンバン州の刑務所長でフランス植民地時代には兵士でもあった。父親を病気で亡くした後に母親は再婚し、さらに二人の子どもを授かっている。
5才の時にストゥントレンの小学校に入った彼は、6才~7才の頃にギターに興味を持ち、学校の行事での演奏を頼まれたりしていた。また、仏教に深い関心を寄せ経典や様々な本を読んだり、サッカーや凧揚げなどの遊びが好きだったようだ。
歌手へ
1951年頃に医学の勉強をするためにプノンペンへ上京したが、歌手や作曲などの仕事もするようになり、またたく間にプノンペンでも有名人となった。
カンボジアがフランスから独立する1953年頃には、彼の歌はラジオの定番曲となるほどの人気を得るようになっていた。しかし医学の勉強は病院(Preah Ketomealea Hospital)で働きながらも続けていた。
医学学校を卒業した後、彼は看護師になり、結婚の約束をしていたいとこのKeo Thorng Gnutと結婚し、四人の子どもを授かった。
家庭を持ってからも、彼の歌手としての人気は高まり続けた。その独特の澄んだ歌声はカンボジアの人々の心をつかみ、自ら作曲も手がけカンボジアの民謡からロックまで様々なジャンルの曲を歌う彼は、カンボジアのトップ歌手となった。
後に国王夫人のお抱え歌手にも任命され、名実ともにカンボジア音楽界の王としての座を不動のものとする。
悲劇の時代
1970年3月18日の突然のロンノル派のクデーターによってシアヌーク政権が倒されると、彼の歌は新ロンノル政府のプロバガンダとして利用されるようになる。
元の歌から歌詞を変えられ、兵隊の歌や共産主義批判、王室批判などの歌を歌わされた。
この時までに彼はバレエダンサーと再婚している。
やがて、1975年4月17日にクメールルージュがプノンペン入城を果たしロンノル政権を倒すと、強制移住政策によってプノンペンは無人の街となる。
偉大なる歌手シン・シサモットの行方はこれ以降わかっていない。
有識者や芸術家を次々と殺害したとされるポルポト政権が、旧政権の広告塔とされていた彼をどう扱ったかは想像に難しくない。
音楽
シン・シサモットの手がけた音楽ジャンルは多岐にわたり、カンボジアの伝統的な歌から、リズム&ブルース、ロックやガレージロックまで幅広く歌いこなし、独特のカンボジアンサイケといったジャンルも確立した。
海外の曲のカバーも多く、日本の歌謡曲や童謡なども上手く取り入れている。
多くの音源は戦乱により消失してしまったが、海外などに残されたテープを元に復元されたものが現在広まっている。 ただし、内戦終了後当初カンボジアには設備も人材も無く、ほとんどの物がアメリカのカリフォルニアなどで製作され著作権の理由からか、ドラムなどを新しくかぶせたリミックス物ばかりで、本当のオリジナル音源にはほとんど出会うことがない。
現代のカンボジア歌手もシン・シサモットの曲を新たにカバーするなど、いまでも彼の人気は衰えることを知らない。